11/08/2018
今日やっとで上田城に行きました😁
「平成真田六文銭隊」公式facebookページです。 強い信念を持って日本の未来を考える。皆さんに政治に興味を持って頂き日本の未来を真剣に考える団体です。
平成真田六文銭隊 公式facebookページです。
< 平成真田六文銭隊とは? >
平成真田六文銭隊は、日本の未来を真剣に考え頑張っている政治を応援する団体です。
日本の未来を考え、「団結力のある真の日本にしないといけない。」、「真の日本」の実現に向けて様々な活動を展開している団体です。
腐敗している中央政権。すべての過ちの代償は国民に押し付ける卑劣かつ無責任な政治・政策に国民の未来はないです。
国民の声を伝え、暴走する中央政権の歯止めをかけれるよう実践してまいります。
11/08/2018
今日やっとで上田城に行きました😁
14/10/2017
テレビで紹介されました!😉👍❤
10/12,10/7,10/11_OA『人生酒場~唄は夜につれママにつれ』 【放送】 毎週土曜日26:43~26:48 / 名古屋テレビ「メ~テレ」 毎週水曜日25:30~25:35 / テレビ大阪 毎週木曜日25:00~25:25 / TOKYO MX 【出演】玉袋筋太郎(浅草キッド) 永井みゆき 【今回の出演店舗】眞田洋至マスター
27/03/2017
良かったら、拡散ヨロシクお願い致します!m(__)m
我が本陣、日本料理 眞田幸村本家のホームページがパワーアップしました!(≧∇≦)b🎶
6カ国語に変換も出来ますので、世界中から西明石いらっしゃい!!😉👍🎶❤
日本料理 真田幸村本家 日本料理、割烹、寿司、会席、仕出し、ゲリラ料理のお店。眞田秘伝の料理をお楽しみください。
17/02/2016
眞田幸村本家家系図
17/01/2016
これが本当の眞田幸村のお墓です!
23/10/2015
17代目のお店が紹介されました!!d(⌒ー⌒)!
ええやん!!あかし「夜のまち探検隊 西明石編」 明石ケーブルテレビが制作する人気バラエティ情報番組。
15/10/2015
400年ぶりに、我が眞田家に帰ってきた妖刀村正(*^^*)そろそろ嵐が興りそうな気がします!!d(⌒ー⌒)!
05/09/2015
いよいよ9月8日(火)明石に新たな観光スポットがオープンします!!d(⌒ー⌒)!
ヨロシクお願い致します!!d(⌒ー⌒)!
07/05/2015
『その男、真田幸村』総集篇その3(17話~24話)
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第17回 第三章 九度山から大坂城へその7
真田父子の九度山生活は長く続いた。天海の送り込む刺客と真田忍軍との戦いも続いたが、これはあくまでも闇の戦いであった。家康にしてみれば、浅野という正式の監視役を置いている手前、真田の方から謀反でも起こさない限り、表だって総攻撃を仕掛けることはできなかった。
守勢に徹した真田忍軍の驚異的な粘りもあって、両軍の戦いは膠着状態のまま、気がつけば、あっという間に十一年が過ぎていた。慶長五年( 一六〇〇年 )に配流されてから十
一年目の慶長一六年( 一六一一年 ) になっていたのだ。
流石にこれだけ長く幽閉されると昌幸と幸村の気力にも衰えが見え始めていた。配流された当初は、謀反を起こすなどという考えはないにしても、このまま九度山で武士の魂が潰えてしまうなどとは全く思っていなかった。昌幸にいたっては次の家康との対峙に備えて戦略を練っていたほどであったのだ。
時の流れというものは哀しみや怒りを忘却の彼方へ連れ去ってしまうものである。捲土重来に燃えていた二人の気概もいつのまにか萎えを見せていた。そうなると人間は弱気になり、その風体も気持ちに合わせるかのように衰えてくる。
既に六十歳に達していた昌幸は体力、気力とも、衰えが著しかった。壮年過ぎたばかりの幸村にしても歯が抜け落ちたりして風采があがらないありさまであったのだ。
幽閉されてからの昌幸には、一つ計算違いもあった。それは赦免されると思っていたことである。同じ豊臣方として関ヶ原で家康と戦った毛利や蜂須賀が赦免されてからは一層その思いが募ったのである。これは百戦錬磨の彼にしては意外に思えるかもしれないが、やはり昌幸とて人間である。
実際、昌幸が赦免を願っていたことは慶長八年( 一六〇三年 )に信綱寺に当てた書状な
どからも明らかである。
ほぼ同じ頃、幸村も家康の臣となっている兄信之に手紙を書き、気力の衰えを吐露している。
気力、体力ともに充実しているときは、人間は強いものである。しかしながら、そのどちらか一方でも萎えを見せると、心に隙ができる。配流されてから十一年も経ってしまうと、智将と呼ばれた昌幸もその例に漏れなかった。体力、気力とも著しく低下していた昌幸をかまりの魔手は見逃さなかったのである。
真田父子のもとには地元の百姓たちがよく野菜などを持って来てくれた。生活に困窮していた二人にはまことに有難いことであったし、穫れたての新鮮な野菜はことのほか味がよく、二人にとっては冴えない日々のちょっとした楽しみでもあった。
その百姓たちの中にかまりが潜り込んでいたのである。なかなか頭の切れる男で、一回で昌幸を仕留めようなどとはしなかった。いくら往年の昌幸ではないにしても初対面の相手には警戒心を怠らない。その男はそのあたりのことも十分わかっていたのだ。
三度か四度、全く毒の入っていない野菜を昌幸に届け、信頼を得てから事に当たったのである。
そのかまりは、凶行決行の日、幸村が近くの川へ釣りに出かけている頃を見計らってやって来た。
「昌幸さま、どうも。今日はこんな良い胡瓜が穫れました。是非召し上がってくだせえ」 「おお、あんたか。あんたとこの野菜はいつも旨いのう、有難うよ。どれどれ」
「いえいえ、とんでもないことですだ。わしらに出来るこというたらこんなことくらいですから」
そう言ってその男は穫れたて胡瓜を三、四本昌幸に手渡した。色艶、大きさとも確かに見事な胡瓜であった。だが、少し艶がありすぎた。気力が充実しているときの昌幸ならそれに気がつかないはずはなかったが、そのときは見過ごしてしまった。
「ほう、確かに見事な胡瓜じゃのう」
「もう軽く洗ってますからそのまま食べられますだ」
「うむ、では早速味見を」
昌幸は何の疑いもなくそれを一囓りした。ポキっという小気味よい音とともに胡瓜の一片が昌幸の口の中に吸い込まれていった。囓った瞬間は旨そうな表情をしていた昌幸であったが、ちょうど食べた胡瓜が喉元を通り過ぎた頃であった。彼は悶絶の表情とともに口から大量の血を吐いて、その場に倒れてしまった。
昌幸の吐血を見届けたかまりはそれまでの百姓の趣とはまるで違う、別人かと思えるような俊敏な動きで山の中に消えていった。
地面に倒れ伏した昌幸のうめき声で彼の家にいた若い者たちが飛び出して来た。十勇士の下で修行をしている部屋住みの若い衆たちである。彼らが駆けつけたときにはもう昌幸は虫の息であったが、最後の力を振り絞ったのであろう、彼の右腕はかまりが立ち去った方向を向けていた。
「昌幸様、昌幸様・・・」
若い衆が呼びかけても微かに吐息が聞こえるだけで、反応はなかった。
「こ、これは、えらいこっちゃ。おい、俺は逃げた奴のあとを追う。お前、至急
幸村様に知らせてこい」
若い衆のうちのリーダー格の一人がもう一人の者にそう言って、昌幸の指さした方向に走っていった。他の者たちはどうすることもできず、ただ昌幸の側で彼を見守っているしかなかった。若い衆とはいえ戦の中に身を置いているので人の生死の状況は把握していた。もはや医者を呼びにやる段階ではなかったのだ。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第18回 第三章 九度山から大坂城へその8
(注)冒頭部につき、一部前回の続きから等
胡瓜に何か即効性の致死力を持つ毒が塗り込まていたのであろう。
昌幸の吐血を見届けたかまりはそれまでの百姓の趣とはまるで違う、別人かと思えるような俊敏な動きで山の中に消えていった。
地面に倒れ伏した昌幸のうめき声で彼の家にいた若い者たちが飛び出して来た。十勇士の下で修行をしている部屋住みの若い衆たちである。彼らが駆けつけたときにはもう昌幸は虫の息であったが、最後の力を振り絞ったのであろう、彼の右腕はかまりが立ち去った方向を向けていた。
「昌幸様、昌幸様・・・」
若い衆が呼びかけても微かに吐息が聞こえるだけで、反応はなかった。
「こ、これは、えらいこっちゃ。おい、俺は逃げた奴のあとを追う。お前、大至急幸村様に知らせてこい。それからお前は医者だ」
若い衆のうちのリーダー格の一人が他の二人にそう言って、昌幸の指さした方向に走っていった。
その場にのこった者たちはどうすることもできず、昌幸のそばで彼を見守っているしかなかった。ただ、若い衆とはいえ戦の中に身を置いているので人の生死の状況は把握していた。もはや医者が来ても助かる見込みはないことを誰もがわかっていた。
幸村が駆けつけたときには、もう昌幸は息絶えていた。彼より少し早く着いていた医者もそれを彼に告げた。
「父上、申し訳ござりませぬ。私が愚かなばかりに・・・」
「いえ、幸村様、我々の責任です。昌幸様のそばについていながら・・・」
「いや、ここへ駆けつけながら聞いたが、彼奴ならこのわしとて見誤っていたかもしれぬ。うぬらに責はない」
昌幸の悲報を聞きつけ、十勇士たちも集まってきた。
「幸村様、とんでもないことに・・・ 我が真田忍軍の大失態です。いかようなる処分も甘んじて受けます」
猿飛は目に涙をうかべながら言った。
「いや、うぬらは勿論のこと、若い衆の責でもない。相手の方が一枚上だった」
「しかし・・・」
「それより今は、わが父・昌幸の喪に服すこと、それが肝心。あとのことはそれからだ」
もう猿飛は何も言わなかった。他の十勇士たちも涙をこらえて昌幸の骸を見守った。毒を盛った男も捕まえることはできなかった。 享年六十五歳、稀代の智将と呼ばれた男の人生に幕が下ろされた。
少しあとでわかったことであるが、昌幸に毒を盛った男は天海の差し向けた刺客ではなかった。昌幸を仕留めて家康に重用されることを願った一介の元浪人であった。それ故にこの時点では家康もまだ昌幸の死を知らなかったのである。
後日人づてに昌幸の死を知らされた家康は何度も念を押して聞いた。
「死んだのは間違いなく昌幸だな、幸村ではないのだな」
先にも書いたが、家康が恐れていたのは幸村ではなく、昌幸であった。幸村はまだまだ取るに足らぬ者と見くびっていたのだ。頭脳明晰な家康にしては大きな間違いをしていたのである。
男として、いや、特に一軍の将として必要な資質は三つあると言われている。俗に言うところの「智」、「仁」、「勇」の三つである。この三つを兼ね備えた者が最高の将たる資格を有するのである。
「智」と「勇」を昌幸が持ち備えていたことは言うまでもない。だが、「仁」、別の言葉で言えば「義」、これを彼は封印していたのである。昌幸の境遇からすればそれは致し方のないことであり、幸村にも十分納得のできることであった。
しかしながら、この時既に幸村には「智」、「仁」、「勇」全てが備わっていたのである。「仁」すなわち「義」については、青年期に上杉氏の気質に触れたからこそ得られたものであった。幸村は、あの時の思いをずっと心に温めてきたのである。無論、それは昌幸にもわかっていたが、それはそれ、父子だからとて全てを同じくする必要はないと昌幸は考えたのだ。それに自分に持ち得ないものを持つ息子を頼もしく思いこそすれ、疎むことなど全くなかった。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第19回 第三章 九度山から大坂城へその9
昌幸の骸はとりあえず九度山の麓にある禿(かむろ)の宿に葬られた。父の逝去を聞きつけた長男の信之が自らの手で父を弔いたいと幕府に願い出たが、聞き入れられなかった。
昌幸の死後、九度山に随行してきた家臣のほとんどが帰ってしまった。ここ数年寂寞とした日々を過ごしてきた幸村の寂しさはより一層募るばかりであったが、どうしようもないことであった。彼自身の風貌も白髪が増えたり、歯が抜けたりして体裁のよくないこと甚だしかった。
「俺はこのままここで終わるのか・・・」
弱気の虫が騒ぎだし、行く末の不安が胸をよぎる日が何日か続いたある日、幸村は昌幸が殺される少し前の彼との会話を思い出した。いや、会話というより父が息子に言って聞かせた話という方が正しいであろう。
それは昌幸が毒殺される三日ほど前のことである。この地における彼の唯一の楽しみと言ってよい碁を打っているときであった。幸村を相手に焼酎を飲みながら、不意に彼は言った。
「幸村よ、あと二年、いや三年すれば必ず大きな動きがある。それまでは何とか生き永らえて再び家康と対峙じゃ」
久しぶりに聞く、父の威勢のよい言葉だった。
「父上、もう一度家康と戦う時が来ると」 「そうじゃ、あの用心深い家康が大坂城の秀頼公をそのままにしておくものか」
「ですが父上、豊臣側は受けてたつでしょうか」
「うむ、そこじゃ。お前も知っての通り、秀頼公はまだまだ若い。その上、母君の淀殿が溺愛するあまり実戦を積んでおらんからのう」
「それに取り巻きの者たちも」
「役名ばかりの烏合の衆よのう」
「確かに」
「いや、家康と一戦交えるとあらば秀頼公は必ずやわしらを呼んでくれるはずじゃ。そうなればわしには秘策がある」
「秘策と申しますと」
「む、ふふふ」
このとき二人の眼はここ何年か忘れていた輝きを取り戻していた。自分たちが幽閉されている身であることなどまるで頭から抜けているようなのであるが、こういうところにこそ真田父子の真骨頂が見て取れるのである。
幸村は父の話に聞き入った。身びいきを除いても昌幸の考えた戦略は幸村が身震いするほどの秘策であった。話を聞きながら、彼は思った。
「こういうことにかけては、我なんぞまだ父上には遠く及ばぬ」
昌幸が考えた秘策とはおおよそ次のような内容であった。
二万あまりの軍勢を引き連れて美濃国( 岐阜県) へ進出し、そこの荒野に陣を張る。戦の要所とは思えぬところにそれだけの兵を引き連れて行けば、家康はきっと何かの罠だと思い、暫くは動かない。用心深い男だからこそ必ずそうする。これで奴らの大坂までの日数を四、五日は稼げる。
次にこちらの忍軍を敵陣に潜り込ませ、上辺だけ戦うふりをさせて、すぐに退かせる。退くところは近江まで。敵は追って来るであろうからその前に瀬田と宇治の橋を落としておく。これでまた五日以上は日にちを稼げる。 この足止めの間に完全には徳川方についているとは言えない関東の大名連をこちらにつかせる。徳川方の周章狼狽ぶりを目の当たりにすればそやつらは必ずこっちになびく。
さらには二条城を焼き払い、大坂城に籠もる。夜、昼なく執拗に敵を責め立て、奔走させて、疲労困憊の極みに至らせる。
「ふふ、幸村よ、どうじゃ。わしには勝算大の戦略と思えるのじゃがのう」
「父上、確かに素晴らしい戦略だと思います。あとは豊臣方がその案に乗ってくれるかどうかでありますが」
「ふむ、その通りじゃ。太閤なきあと、その側近たちは保守的なものばかりじゃからのう。大坂城におれば大丈夫と思っておる」
「大坂城は確かに難攻不落ではありますが・・・」
「それはそうだが、家康はそんな甘い男ではない。ただ大坂城に籠もっておるだけでは必ずや攻め落とされる」
「はい、その通りかと思います」
「それになあ、幸村よ。こうは言ったものの、いざ決戦というときまでこのわしが生きておられるかじゃ」
「父上、何を弱気で、縁起でもないことを・・・」
「いや、まあ聞け。人間、いつ死ぬともかぎらん。もし決戦までにわしが死んでしまえば、お前がこの策を実行するのじゃ。よいな」
「ち、父上・・・」
「だがな先ほども言ったように今の城内には腑抜けしかおらん。そやつらを説得するのは至難の業じゃ。下手をすれば全く受け容れてくれぬかもしれぬ。そうすれば戦は負けよ」
「父上、私とて真田幸村、父上の血をひいております。そうなればそうなったで臨機応変に対処致します。仮に負け戦になろうとも決して楽には勝たせませぬ」
「おお、その意気じゃ」
二人がこの話をしてからわずか三日後に昌幸は不帰の人になってしまったのである。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第20回 第三章 九度山から大坂城へその10
父の死後、幸村は暫く茫然自失の日々を送った。彼は、九度山に流されて来たとき三人の娘を連れていたが、そこでさらに二人の男子と三人の娘をもうけた。残念ながら次男と次女は夭折してしまったが、のこった子らの行く末を思うとき、彼の心はいたたまれなくなることも多かった。特に唯一の男子である大助のことを思うとやりきれない気持ちになった。大助は九度山蟄居が始まって間もなくの頃出来た子であった。このままこんな憂鬱な日々を送り続けるのかと思っていたところが・・・。
なんと昌幸の予言がものの見事に的中したのである。京都方広寺の鐘銘問題に端を発して、徳川と豊臣が再度激突することになったのだ。
それでは、その京都方広寺の鐘銘問題とはなんぞや。少し触れておこう。
かって、秀吉は、家康の勧めにより、方広寺に大仏殿を建立していたのであるが、後に地震によって倒れ、そのままになっていた。これを秀頼が再建することになった。修復作業は順調に進み、慶長十九( 一六一四 )年に
いよいよ梵鐘に銘を入れることになったが、家康はその銘の文言に難癖をつけたのである。 家康が文句をつけたのは、次の二つの句に対してであった。
一つは、「国家安康」。これは、家康の名を千切ったものであると言いがかりをつけた。 もう一つは、「君臣豊楽、子孫殷昌」。豊臣を君として殷昌を楽しむという意味であり、徳川を呪い、豊臣の繁栄を願うものだ、けしからんと激怒したのだ。
質(たち)の悪いヤクザでも吃驚しそうな難癖のつけ方である。言うまでもなく、国家安康や君臣豊楽などはれっきとした熟語である。
これを聞いた豊臣側は弁明のために片桐且元を派遣した。すぐに弁明に使者を遣わすなど、実に情けない限りであるが、その時点での力関係を考えたら、まあ、そうするしかなかったのであろう。
弁明に行った且元は、家康に会うことすらできず、逆にその側近から三つの難題を押しつけられて戻って来た。許してほしければ、三つのうちのいずれか一つを実行せよという、いわば家康の最後通牒のようなものである。
その三つの難題は、次のものであった。淀殿を人質として江戸へ連れてくるか、秀頼を江戸へ参勤させるか、あるいは速やかに大坂城を出て他国に移るか、という豊臣側には到底聞き入れることのできない無理難題なのだ。 ところが驚くべきことに、この無理難題自体にもっとどす黒い罠が仕掛けられていたのである。
実は、豊臣側は、片桐且元以外にも何人か使者を送っていた。そのうちの一人、大蔵卿の局の話が且元の話とは全く違うのであった。
彼女は、次のように報告した。
「家康殿に会いました。機嫌の悪いことなどなく、秀頼様は将軍秀忠の娘婿ゆえ、いささかの害心もないと申しておりました」
淀殿は、こちらの方を信用した。且元の持ち帰った三箇条はこちらと徳川の関係をさらに悪化させ、ひいては豊臣を陥れるものに違いないと邪推したのである。挙げ句の果て、且元は淀殿の信頼を失い、大坂城を退去させられてしまった。
これこそが家康の仕組んだことなのである。且元が復命した報告こそが、こちらの真の要求である。それを無視して且元を放逐するとは何事か、幕府に対する謀反以外の何ものでもない、よって大坂城襲撃を決行する、と。 家康にしてみれば、大坂城を攻撃する大義名分として、方広寺の鐘銘問題はうってつけの材料に思えたのであろうが、なんともはや、えぐいことを考える男である。そして、恐ろしいほど謀略のきく男と言わざるを得ないだろう。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第21回 第三章 九度山から大坂城へその11
もはや徳川と豊臣の再度の激突が必至となり、決戦が世間の話題にのぼり始めた頃、大坂の使者が九度山を訪ねてきた。使者は、黄金二百枚、銀三十貫を音(いん)物(もつ)に携えていた。
この豊臣方の使者については、大野治長という説と明石全登(てるずみ)という説の二つがあるが、それはどうでもよいことである。誰が派遣されていようが幸村の返事は一つしかなかったからだ。
無論、彼は快諾した。今の不本意な生活を抜け出し、再び家康と表の舞台で戦えるかもしれないという喜びに身震いさえ覚えたのだ。また、正直なところ使者が携えてきた音物も有難かった。それで武将としての面目も保てるからである。
大坂から使者が訪れた明くる日、幸村は、六文銭の旗を洗い清め、刀や槍も磨いて、来たるべきときに備えた。あとは自力で九度山を脱出するだけであった。
幸村は十勇士らを山中の人目につかない所に集め、大坂城入城の決意を宣言した。そのときの彼の目は、十勇士から見ても光り輝いた、久しぶりに見る自分たちの大将のものに相違なかった。「皆の者、これまでよく耐えてくれた。長い間、守勢ばかりの戦を強いたが、それも今日まで。これからは攻める。攻めてこそ真田なり。今一度士気を鼓舞して力を貸してくれ」
十勇士にも異論のあるはずがなかった。
「幸村様、やりましょう。この時が来るのを待っていたのですから」
「幸村様、我ら真田忍軍、生きるも死ぬも幸村様とともにであります」
それまでとは打って変わって皆の顔にも精気が満ち、気勢も上がった。中には感極まり、涙を流す者すらいたほどであった。
忍軍の意思を確かめたあと幸村は次のように言った。
「のこされた問題は、ここを脱出するだけであるが、それはわしの問題。その前にその方たちにしてもらいたいことがある」
「何でしょう、幸村様」
猿飛が尋ねた。
「む、ふふふ、攻めると言ったはずだ」 「ま、まさか!?」
「ふっ、そう、そのまさかよ」
「い、家康を・・・」
霧隠才蔵も吃驚して言った。
「佐助、才蔵、攻めるなら相手の頭だ」
大坂城入城の前に家康を暗殺してこいと幸村は命じたのである。これには流石の百戦錬磨の強者たちも戦慄を覚えた。
「こ、これがほんの数日前まで隠居同然の生活をしていた人か・・・」
十勇士が驚くのも尤もであった。何しろ将軍家康の首を取ってこいということなのだから。周りの警備も半端ではないはずだし、家康の影武者も数人いるのはわかっていた。暗殺するのは並大抵のことではないのだ。
幸村は続けた。
「正直言って、家康の首を取ったとしても大勢はかわらぬかも知れぬ。なぜなら江戸幕府は今やもう家康なくとも十分長期政権を敷ける布陣になっておるからだ。何度でも影武者を拵えるだけであろう。だがな周りの者に与える心理的重圧が違うは。大衆の面前に奴の首をさらせば、徳川方についたばかりの者どもは、必ずや動揺する。そこにつけ込んで大坂で戦う」
聞いていた一同は、もはや驚きが感心に変わっていた。上田の戦いで二度にわたって家康に苦汁を嘗めさせた男の凄さを再認識したからである。
「幸村様、その大役、拙者と才蔵がお引き受け致します」
「むう、やはりあれだけの男ゆえ、お主らになるか」
「お任せください。必ずや家康の首を幸村様の前に」
その場で散会したあと猿飛と才蔵らは家康暗殺の具体的な案を練るために闇に散っていった。幸村は幸村で九度山脱出に知恵を絞った。
その頃、家康は将軍職を秀忠に譲り、自身は駿府城にいた。ただ、将軍職を退いたとはいえ、絶大なる権力を誇示していたのは相変わらず家康の方であり、秀忠ではなかったが。
駿府城は三重の堀を持つ輪郭式平城であり、天守閣は、一番高い部分(天端)で約五十五メートル×四十八メートルという、城郭史上最大のものであった。しかしながら一六〇七年(慶長十二年)に、完成したばかりの天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失してしまった。
その後直ちに再建されたが、再建時の天守閣は、七階の天守が中央に建つ大型天守台の周りを隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となってしまった。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第22回 第三章 九度山から大坂城へその12
家康は、この駿府城に複数人いた。勿論、本物一人とあとはすべて影武者であった。本物を突きとめるのは至難の業であったが、小猿が有力な情報を掴んできた。
小猿の話によれば、本物の家康は天守閣のすぐ近くではなく、五階の一室で寝起きしているとのことであった。そして、その部屋のすぐ西隣に最近特別に厠を設えたということだ。どうやらその頃家康は頻尿に悩まされていたらしい。小猿は仕入れてきた情報をもとに紙に部屋とその周辺の見取り図を書き、猿飛と才蔵に見せた。
「厠の近くか」
大猿が独り言のように言うと、才蔵も、
「そいつを利用するのも手だな」
「ああ、闇に紛れて城内に忍び込むのはなんとかなるとして、その五階よのう、問題は、才蔵」
「うむ、そこは特に厳重な警戒であろうからな」
「よし、先ず、お主が四階に忍び込め。拙者は少し遅れて五階に上がり厠の外から忍び込む。煙幕でもひいて護衛の者どもを引きつけよう。お主、その隙に五階に上がり、家康の寝室に忍び込め」
「すまぬのう、大猿、臭い思いをさせて」
「ふふ、仕方あるまいて」
「それにな、実は既に一つ手は打ってある」
「ん、どういうことだ?」
「くノ一だ、幸村様の話を聞いた後すぐに三人ばかり駿府城に潜り込ませた。うまくいったようだ」
「ほう、流石よのう」
「かまりとは疑われなかったようだ」
「うむ、そいつは好都合だ」
「ふっ、三人ともとびきりの上玉だ。おそらくは家康は・・・」
「ああ、わかっておる。じいさん、あの歳でまだまだ盛んとのことよのう」
「三日にあげず、らしい」
「それはまた、凄いのう」
「まったくだ。そして案の定、先ほどおなごから届いた文では近いうちに三人のうちの一人が呼ばれるのは間違いないとのことだ」
「そうか。それでは、その日にやるか」
「ああ、そうしよう。詳しい日取りはもうすぐわかるだろう」
「それにしても才蔵、くノ一、いや、おなごの扱いにかけてはお主の右に出る者はおるまい」
「あ、ああ、まあな・・・」
このとき大猿はそう答えた才蔵の表情に一瞬暗い影が宿ったのを見逃さなかった。
その頃幸村は十勇士にもう一つ命令を下していた。あの妖刀として名高い村正を手に入れてこいということであった。命令を受けたのは根津甚八と三好兄弟の三人であったが、三人とも幸村の真意を測りかねた。彼らの怪訝そうな表情を見て、幸村は妖刀村正の話を披露した。
戦国時代、天下の名工として名を馳せていた正宗のもとで初代村正は刀鍛冶の修行を積んでいた。あるとき、あまりに刀の切れ味にこだわりすぎる村正を危惧した正宗は、一計を案じて、互いの鍛えた刀を刃を上向きにして川面に突き立てることを命じた。
結果、正宗の刀は、水流を分けるのみで、流れてきた落ち葉は刀を避けるように下流へ去っていく。
一方村正のそれは、落ち葉を吸い寄せ、悉く真っ二つにぶった斬った。それを見た正宗は、次のように諭した。
「ただ斬れるだけでは真の名刀とはいえぬ。お主の斬れ味にこだわり過ぎる心は邪気となって刀に宿ってしまう。斬らなくてよいものまで斬ってしまうであろう」
これに村正は激しく反論した。
「斬れることこそ刀の真髄」
そう言い残し、正宗のもとを去ってしまったのである。
以後、村正の作る刀は、その畏しいまでの斬れ味にまつわる数々の伝説が出来、一旦鞘から抜けば血を見ずにいられぬ妖刀と言い伝えられたのである。
家康はこの妖刀を忌み嫌った。村正は徳川に祟ると考えていたようである。無論、それには理由があった。
実は、妖刀村正伝説の最初の犠牲者が家康の祖父、松平淸廉なのである。淸廉は家臣の勘違いでその者に斬り殺されるのであるが、そのときの刀が村正であった。
二度目は家康の父、広忠。彼も淸廉同様家臣に太股を刺されてしまうが、その刀もこれまた同じく村正。ただ、この時は命に別状はなかったが。
二度あることは三度ある。三度目は家康の長男、信康が犠牲になる。信康は織田信長に切腹を命じられた。そのときの介錯に使われた刀もやはり村正であった。
そしてなんと、四度目は家康に祟ってしまった。
関ヶ原の戦い後間もなくの頃のことである。家康は、信長の弟・織田有楽斎の次男・河内守長孝の槍を二人で検分していたところが、誤って手から槍を落としてしまった。それが家康の左手を傷つけてしまったのだ。血相を変えた家康は、長孝に言った。
「こ、この槍は村正ではないかっ」
「いかにも、さようでござります」
「村正は徳川家に祟る」
あまりの家康の見幕に長孝は吃驚したそうな。無論、これらの出来事すべて偶然と言ってしまえばそれまでであるが、家康は決してそうは思わなかった。「村正は徳川家にとってこの上もなく縁起の悪いものだ」と思い込んでしまったのである。この話が世間に広まり、かなり大袈裟に妖刀伝説が出来上がってしまったのであろう。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第23回 第三章 九度山から大坂城へその13
幸村から妖刀村正の話を聞いた根津甚八と三好兄弟の三人は、何故幸村が村正入手に固執するのか合点がいった。
根津甚八が言った。
「なるほど、家康を心理的に揺さぶるのでござりますね」
「うむ。刀の一本や二本手に入れたとて普通なら大勢にほとんど変わりはない。だが、奴には違う。家康には、あの刀は何万人の敵兵に相当するほどの脅威のはずだ」
「家康と村正にそんな経緯があったとは・・・」
話を聞いても俄には信じられないような面持ちで三好兄弟の兄、清海入道も言った。
幸村の出した二つの指令は、まず村正の奪取から実行に移された。
当時、諸国に出回っていた村正は、そのほとんどが偽物で、本物はほんの数本しかなかった。その本物を見つけだすのは並大抵の苦労ではないが、小猿が有力な情報を掴んできた。
小猿の話では、大、小二本の村正が、今、盗賊たちの手にあるということであった。その者たちは、どうやら村正を駿府城の家康に献上するらしいのだ。無論、それを手柄に彼の家来になり、重用してもらうのが狙いであった。そうであれば、家康と村正の経緯を知っての上のことであろうから、その二本は、まず本物と考えて間違いないのである。
幸村は言った。
「小猿よ、でかした。それは本物に違いないであろう」
「はっ、有り難きお言葉、そして拙者も間違いなく本物と確信致しております」
「うむ、あとは、そやつらがいつ、どこを通って城に入るかだな」
「はい。今はまだ江戸と駿河のちょぅど半ばあたりに宿をとっております。ですが、近日中に必ず出立するものと思われます」
「わかった。先回りして待ち伏せするしかないのう」
「はい。ただ、どの道を通るのか・・・」 幸村は暫くの間黙考したあと、
「そやつらが駿府城に入る道はおそらく二つしかないであろう」
「と、申しますと」
「一つは、太閤殿が小田原攻めの際に切り拓いた道だ。宇津山の手前を脇にそれる・・・」
「もう一つはどのような道を・・・」
「うむ、今一つは古来からある細い道だが・・・」
「細い道・・・ああ、存じております、その細い道は」
二人の言う細い道とは、いわゆる「蔦の細道」と呼ばれるものである。平安時代からある道で、蔦に覆われた道が一里近くも続き、道幅も極めて細いから、通行するには難所と言えた。
「やはり前者を通りましょうか」
小猿が言った。
「いや、逆だろう。そやつらは後者を通るに違いない」
小猿が幸村の言の真意を測りかねていると、幸村はさらに続けた。
「本物の村正を手に入れるほどの者どもゆえ、頭も切れるし、家康の気性も心得ているであろう」
「はあ・・・」
「首尾良く村正を家康のもとに届けた後、『どの道を通ってきたか』と尋ねられたら」
「な、なるほど・・・」
「太閤殿の道を通って来たと言えば、家康めはいい顔をしない、そこまでその者どもは考えていると思う。無論、わしの勘にはちがいないが」
小猿は改めて幸村の読みの深さに感服した。
「小猿よ、お主、ご苦労だがこのあとすぐそやつらのところへ行って監視を続けてくれ。根津たちにはわしから直接話す」
幸村は、すぐに根津甚八と三好兄弟を呼び、経緯を説明して、駿府に発たせた。
数日後、根津ら三人は早馬を乗り継いで、「蔦の細道」の入口あたりにまで来ていた。夕刻間近の黄昏時であった。小猿からの伝書では、盗賊たちはまだ駿府入りしていないはずだった。
彼らは蔦が深く生い茂った一角に、今の時代で言えば簡易のテント小屋のようなものを帆布で作った。そこで盗賊が通るのを待つのである。無論、相手に気づかれないように小屋は慎重に蔦で覆った。
「小猿の話では盗賊たちは十人弱とのこと、奇襲をしかければ刀の二本くらい奪うのは造作もない」
リーダー格の根津が二人に言った。
「ええ、ですがその者たち、夜は通らないでしょう。献上する相手が相手だけに、必ず夜が明けてから朝のうちになると思う」
三好兄が言った。この兄弟、文章では微妙なニュアンスを伝えにくいが、弟の少し荒っぽい口調とは逆に、兄の方はどことなく物静かな話し方が特徴的であった。
「ほう、そらまたどうして」
二人の会話を聞いていた三好弟が、ややぶっきらぼうに言った。
「それはな、家康は刻(とき)の体裁をかなり気にする男だからだ」
「そう、闇夜にものを献上するなどもってのほかということです」
「矢張り、難しい男だのう、奴は」
「違いねえや、さあ、今のうちに腹ごしらえして、交代で少し寝ておこう」
根津は二人を促して小屋の中に入って行った。
盗賊たちの進行が遅れているのか、その日は夜が明けてから丸一日経ってもそれと覚しき連中は通らなかった。
「奴ら本当にここを通るのか。別の道通ってもう城入りしているのでは」
三好弟がやや不機嫌そうに言った。
「そんなはずはない。俺も幸村様の読み通りだと思う」と根津。
「しかし・・・」
弟がまだ何か言いたそうにすると、兄がそれを窘めるように言った。
「焦ってもろくなことはない。もう少し待ってみましょう」
彼らが「蔦の細道」に来てから二日半経った朝早くのことである。
「お、おい起きろ。来たぞ、奴らに違いない」
根津が交代で眠っていた二人を起こした。 「なに、とうとう来たか」
三好弟ががばっと半身を起こした。
「ああ、間違いない。思った通り車を引いている」
根津は帆布の隙間に通した遠めがねを覗きながら答えた。
「それで、あとどのくらいでこの前を通りますか」
兄の方はゆっくりと起き上がりながら尋ねた。
「そうだなあ、ゆっくり進んでいるので四半時たらずといったところか」
当時の時間の数え方で、四半刻は今の三〇分、四半時なら一五分くらいであるが、無論、今のようにきっちりとはしていない。大雑把に一〇分と少しくらいで前を通るという根津の計算であった。
「さあ、それでは参りましょう」
兄が弟を促して小屋から外に出た。続いて根津も外に出た。無論、相手に気づかれないように身を伏せながらであるが。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第24回 第三章 九度山から大坂城へその14
根津たちが立てた作戦は次の通りであった。
おそらく盗賊たちは人力車で村正を運ぶ、それもかなり上等のものだ。決して手で持ち運ぶことはない。少なくとも駿府城の近くからは必ずそうする。相手が天下の家康であるからだ。彼がそういう礼儀作法にうるさいことは知っているはずだ。
そうすれば人力車の前後左右を人が固めるのは定法である。こういう場合、単に物を奪うのだけが目的ならば横から奪うのが定石であろう。根津たちもそう考えた。
ただ、三人一遍にかかるのではなく、まず三好兄弟が前と後ろに分かれて攻め込む。その際、まともにかかったのでは人数の関係で不利である。煙幕や爆竹を使用する。相手の目を眩ませるのである。
盗賊たちも多少はそういうことを想定しているであろうが、奇襲というものは矢張りかけられた方が焦り、戸惑ってしまう。横を固めている者もどうしても前後に目がいく。そこを根津がつくのである。時間差攻撃をしかけようというのだ。
三人が蔦で身を隠して待ち構えていると、いよいよ相手がすぐ目の前のところまでやって来た。人数は八人であった。人力車の真ん中あたりに縦長の木箱が積まれていた。おそらく中には村正が納められているに違いなかった。
三好兄が黒煙の出る発煙筒を数本取り出し、火打ち石で火をつけた。弟は懐から爆竹を鷲づかみにして取り出した。襲撃準備は万端整った。
「よし、行け」
根津が二人を促した。彼のかけ声とともに三好兄弟は人力車目がけて突進していた。兄は煙幕をまき散らして前から、弟の方は爆竹を鳴らして後ろから攻めて行った。根津の読み通り、盗賊たちは狼狽した。彼らとて一般人より腕がたつのは言うまでもないが、煙幕と爆竹で目と耳の自由を制限されていては三好兄弟の敵ではなかった。自軍の不利を悟って両横を固めていた者も前と後ろで応戦にかかった。これまた根津の思惑通りになった。車の両側ががら空きになつたのである。
煙幕の中でも根津の目は車に積まれた木箱を確実に捉えていた。ここぞとばかりに彼は車に突進した。この彼の動きに気づいている者はいないはずであった。車の真横に着いた根津は手を伸ばし、今まさに木箱に触れようとしたときであった。戦士の勘とでも言うべきものが一瞬彼の身体の動きを止めた。ちょうど車の反対側から手裏剣が飛んで来たのだ。
それはどう考えても盗賊たちからではなかった。幸い踏み込むのを躊躇したおかげで手裏剣を避けることはできたが、その分やや車から下がってしまった。煙幕の中、目を凝らしてみると車を挟んだ向こう側には忍者姿の者たちが十数名居た。その中のリーダーと覚しき一人が例の木箱を手に抱えていた。唖然とする根津をあざ笑うかのように、その男は言った。
「お前らどこの者だ。豊臣方の手の者か、それとも・・・まあ、いい。悪いがこいつは俺が戴く」
「なにい、貴様一体何者だ」
根津が大声でどなった。
「ほう、この俺を知らぬか」
異変に気づいた三好兄弟も根津のもとへ駆け寄って来た。盗賊たち八人はすでに倒していた。
気性の荒い三好弟が相手に飛びかかろうとしたが、兄がそれを制して根津に小声で言った。
「根津、ここは拙い。相手は人数も多く、かなりの腕前のようだ。三人では勝てぬ。一旦退きましょう」
相手を睨み付けながらも根津も同感であった。
「ほほう、まんざら馬鹿でもないようだのう。そう、これだけの人数を相手にお前らに勝ち目はない。退け」
「貴様あ・・・」
その言葉に再度三好弟が飛びかかっていこうとしたが、二人が必死に止めた。相手の男はさらに続けた。
「安心せい、俺が欲しいのはこいつだけだ。お前らの命ではない」
「貴様、それをどうするつもりだ」
根津が語気を強めて聞くと、
「さあな、これからゆっくり考えるとするが、お前らの働き、なかなか見事であった。おかげで手間が省けたからな。だが、悪いが盗みにかけてはこの俺の方が一枚上手だぜ」
そう言い残して、その男と手下の者たちは立ち去っていった。失敗した悔しさに苦虫を噛みつぶしながらも、根津はある思案に暮れていた。その男の声を昔どこかで聞いた気がしてならなかったのである。考え込みながら、
「あの声は確か・・・いや、そんなはずは絶対にないが・・・」
07/05/2015
『その男、真田幸村』総集篇その2(9話~16話)
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第9回 第二章 島津義弘を救出その5
結局、上杉氏の信念に触れたことにより、幸村はのちのち父昌幸の智略に上杉の義を加味するようになっていった。父昌幸が持ち得なかった、いや、持っていたかも知れないが封印していた資質を身につけることにより、人間として、武将として、父よりもさらに一皮剥けた男に成長していくのであった。
さて、話を戻そう。島津義弘である。
戦においては鬼神のごとき活躍をする武将であった。関ヶ原の戦いでも豊臣方について暴れ回ったが、流石に形勢不利も極まるにつれ、八方を家康軍に囲まれてしまった。史実ではこのあと当然の如く討ち死にしたことになっているが、事実は全く異なるのである。 洋至もこれまではここで島津氏が死んだものと思っていた。しかしながら上田から帰って、改めて家にのこされている書物を読み、また親族の年長者から話を聞いたりして、驚愕の真実にたどり着いたのである。
ここで島津義弘は殺されていなかったのだ。 八方を取り囲まれ、窮地に陥った彼を真田忍軍の十勇士が救ったのである。
真田十勇士とは、猿飛佐助や霧隠才蔵をリーダーとする十人の忍軍のことである。これら十人は真田一族の強力なボディガードであり、特に猿飛佐助は、剣を持たせれば最強と言われた、あの柳生十兵衛ですら一目置くほど腕が立った。
こう書くと、「真田十勇士は、講談師が面白おかしく作り上げたもので実在はしなかった」と言う人がきっといると思う。そして、おそろしいことに、それが定説にされてしまっているようであるが、とんでもない事実誤認である。
言うまでもなく、十勇士に限らず、有名な服部半蔵ら、いわゆる忍者と呼ばれる者たちは映画やテレビで紹介されるような体術は持ち合わせていない。あれは人間の域を越えたものである。しかしながら一般人よりは並外れた体力を持ち合わせていたし、厳しい修行により剣法は勿論のこと、手裏剣投げやちょっとした幻惑の業は体得していた。
何より古今東西、要人には必ずボディガードがついている。いわゆる用心棒という者がいたのである。機転が利き、腕のたつのが用心棒の必須条件であった。
あまり大きな声で言うべきではないかも知れないが、現代の大物政治家にも必ずといってよいほど用心棒はついているのである。それは警察から派遣されるSPのような表のそれではなく、裏の用心棒とも言うべきものである。表が出来ない仕事を裏がするのだ。
真田にも当然用心棒がいたわけで、それがすなわち真田十勇士ということである。特に真田の場合は、その人柄が慕われたこともあり、まことに有能な者たちが寄ってきたのであった。
講談師が彼らの活躍を誇張して表現したことは間違いないと思うが、無から有を作り出すほどの想像力は当時の講談師は持ち合わせていなかった。十勇士は実在したのである。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第10回 第二章 島津義弘を救出その6
講談師が彼らの活躍を誇張して表現したことは間違いないと思うが、無から有を作り出すほどの想像力は当時の講談師は持ち合わせていなかった。十勇士は実在したのである。
昌幸から命を受けていた十勇士が窮地の島津義弘を救ったのだ。具体的には、猿飛佐助が一計を案じ、集められるだけの兵を義弘の周りに集め、敵がその兵を討ち取る間に義弘を何とか逃すという、言わばトカゲの尻尾切りとでも言うべき戦法をとったのだ。
この戦法は、「捨て奸(すてがまり)」と言
われるもので、一説には島津義弘自らがこの戦法をとって窮地を脱したとするものもあるが、それは間違いである。先に述べたように、ことのほか義と情を重んじる島津義弘が配下を見殺しにして己だけ助かるというようなことをすすんでするはずがないのだ。猿飛の、「大義の前の小事」という懸命な説得に島津義弘が涙を流しながら応じたのだ。
十勇士の作戦は功を奏し、何とか島津義弘を関ヶ原から脱出させ、馬を使って堺の港まで連れて行った。
港には戦国時代の伝説的貿易商人、ルソン( 呂宋助左衛門)が待っていた。
ルソンは安土桃山時代に貿易業で巨万の富を得た商人で、織田信長、豊臣秀吉とも非常に懇意な仲であった。時勢を読むことに長けていた昌幸は、豊臣秀吉がルソンを重用していることを巧みに利用して、この貿易商人とも懇意な関係を気づいていたのである。ここらあたりの昌幸の老獪さは筆舌に尽くしがたいものがある。
このルソンの援助で、島津義弘は船によって故郷九州の薩摩に逃れることが出来たのである。
なんと、昌幸と幸村はここまで先の段取りをしていたのだ。まさに智将の面目躍如といったところであろう。そして、真田がこのときに島津に見せた厚情がのちのち自分に返ってくるのである。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第11回 第三章 九度山から大坂城へその1
かまり、という言葉をご存じであろうか。漢字で書けばおそらく奸になると思う。曖昧な言い方をしなければならないのは、単独でこの言葉がつかわれているときに、漢字表記の実例がほとんどないからだ。
いや、この言葉の意味ですら詳しく述べられている辞典は一つしかない。有名な広辞苑や大辞林、大辞泉などの中辞典には、ほんのお仕着せ程度の意味しか載っていない。「この三つの辞典が中辞典?」と思われる方が多いかもしれないが、国語辞典の分類上では中辞典になる。
それでは一つの辞典とは何か、知る人ぞ知る、小学館の日本国語大辞典( 筆者の持っているものは第二版で、全二〇巻のもの) である。流石に日本一の国語辞典だ。実用例も含めて非常に詳しく説明されている。
ただ、ここでその詳細を述べるのは本意ではない。中辞典に書かれている内容をよりわかりやすく、簡潔に説明したいと思う。
かまりとは、敵の密偵のことなのだ。敵と通じ、敵を導く者という意味である。現代風に言えば、スパイ、が似たような意味になると思うが、かまりの方が少々複雑である。でもまあ大雑把には「潜入スパイ」とでも理解して頂ければ、それほど外れてはいないであろう。
昌幸・幸村の戦国時代は、このかまりが暗躍した時代であった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この三人も当然複数人のかまりを抱えていたし、戦の状況に応じて臨時にかまりを雇うこともあった。
勿論。他の武将にもかまりはいた。おそらくかまりを持たなかった戦国時代の武将は、あの上杉謙信くらいではないだろうか。流石に義を以て勇をなした男である。ここらあたりも実に見事としか言いようがない。
そして、このかまりであるが、なにも人並み外れた体術を持つ者とは限らなかった。ごく一般的な庶民でも手柄や禄欲しさにそうなることはいくらでもあったのだ。
昌幸、幸村にもかまりはいた。そして、このかまりの扱い方においても昌幸と幸村は少々他の武将とは違っていたのだ。
自軍に潜入しているかまりを発見した場合、たいていの者は即座にそのかまりを処分してしまう。殺すのである。しかしながら昌幸と幸村はそうはしなかった。自軍にかまりが潜り込んでいることに気づいても、ぎりぎりまで放っておくのだ。
彼らは、潜入してきたかまりすら自軍に有利な駒として利用しようと考えたのである。かまりに逆に罠を仕掛け、聞き出せるだけの情報を聞き出したり、時には雇い主よりも好条件を提示して、自軍のかまりに仕立て上げることもあった。特に、このあたりの段取りは昌幸が長けていた。老獪そのものと言わざるを得なかった。智将の面目躍如はかまりの扱い方一つをとっても見て取れるのだ。
ところが皮肉なことに、紀伊の九度山蟄居中に、そのかまりに昌幸は殺されてしまうのだから、やはり戦国時代はとんでもない闇の時代であったと言えるであろう。
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第12回 第三章 九度山から大坂城へその2
信之の懸命な助命嘆願により、かろうじて死罪を免れた昌幸と幸村の父子は紀伊の九度山に配流された。九度山は現在の和歌山県伊都郡にある九度山町であり、県の北部に位置する町である。真田家所縁の町として、年に一回、春に真田祭りが催される。また、近辺には真田の名を用いた飲食店なども多い。九度山町は真田一色の町と言っても過言ではないかも知れない。
九度山での真田父子の生活は、精神的な問題は兎も角としても、物資的には困窮を極めた。柿などの地元でとれる果物や真田紐を売ったりしていたが、それだけでは何ほどにもならないのである。信之からの仕送りがなければ、とてもじゃないがやっていけなかったのだ。
父と弟の窮乏を察して、信之が援助したのである。徳川方と豊臣方にわかれた信之と昌幸、幸村であったが、家族の絆はしっかりと結ばれていたのだ。
ところで、少し話がそれてしまうが、信之と幸村の長幼は、本当は逆なのである。一つ違いではあるが、幸村の方が上で、信之が下である。何故、こうなったか。
信之( 信幸 )の幼名は源三郎であり、幸村
のそれは源次郎、三と次の漢字の意味が長幼の矛盾を如実に物語ってしまうのである。
正妻の子であるか否かでこうなってしまったのだ。幸村を生んだ女は身分の卑しい者で、無論、昌幸の正妻ではなかった。その一年後に正妻山手殿の実子として信之が生まれたのである。母親の身分の違いで子の長幼の順を替えざるを得なかったということであろう。
それでも幼少の頃から壮年に至るまで、この二人の間にそのことに起因するわだかまりは全くと言ってよいほどなかったようである。ここら辺りの心持ちも誠に天晴れといって然るべきであろう。
敵方の信之の援助を要するほど金銭的には窮していた真田父子ではあったが、精神的にはそれほどでもなかったようだ。生来の気質に依るところが大きいのであろうが、食べられなくとも心まで貧すること決してなかったのだ。
「草臥れた、ああ、ほんに草臥れた」が、この頃の昌幸の口癖であったようだが、なあに、そんなことは決してない。
昌幸の毎日の生活といえば、先に挙げたような内職的な仕事をする以外は、山間を散歩したり、息子の幸村を相手に酒を飲みながら好きな碁を打つくらいのものである。草臥れる、すなわち疲れることなどないはずなのだ。息子の幸村とて日々の趣は父と大差はなかった。
ただ、その碁を打ちながらも二人の、捲土重来を期す気概は些かも衰えていなかった。 「次に家康と対峙するときは、ここをこう攻めるか、のう、幸村よ」
碁の石を置きながら、こんなことを言うのである。思うに、幸村は兎も角、昌幸の方は根っからの戦闘好きのような気がしてならない。戦において勝利し、権力を握る気はなかったとは言わないが、それよりも戦そのものを楽しむ節が明らかに見て取れるのだ。機を見て敏すぎるきらいがあったのも、一族の存続のためもあろうが、戦そのもののことを考えてのことだったような気がしてならない。
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第13回 第三章 九度山から大坂城へその3
昌幸の一風変わった気質は戦の後にも見て取ることができる。戦いそのものに痼りをのこさないのである。
例えば、最初の上田の合戦のときなどがそうである。家康に勝利したあとは、邪心なく彼と歓談しているし、勝って奢るということもなかったようだ。ここら辺りの心持ちも実に爽快であり、それは幸村にも受け継がれている。現在においても真田が秀吉や家康よりも人気があるのはこういった気質に起因しているところ大だと言えるであろう。
九度山での真田父子の監視を家康から一任されたのは、和歌山城主浅野幸長であった。この幸長の父、長政が昌幸とは旧知の仲であり、無論、その事実は真田父子に不利にはならなかった。浅野は彼らを犯罪者として冷遇することはなく、どちらかと言えば、温情を以て接してくれたのである。
真田父子監視の長は、浅野であったが、実質的な任務には庄屋など村民があたったようである。真田はこの村民たちとも比較的うまく付き合っていったようだ。
戦や真田家の存亡と直接関係しない者には昌幸や幸村は温和であったし、村民たちも「あの家康という巨大戦力に真っ向から立ち向かった者」ということで真田父子に憧憬の念を抱く者も多かったことがうまくいった理由であった。
生活が楽ではなく、米や酒などの物資に事欠く真田父子であったが、村民たちがそういった物資を持ち寄ってくれた。時には真田父子と村民たちで宴会を開くようなこともあった。監視役の者もそれを見て見ぬふりをする場合が多かったようである。
生活の苦しさはあるにしてもそれ以外のことは一見穏やかに思えた九度山での蟄居の始まりであったが、実はそうではなかった。先に述べた徳川方のかまりの魔手は既にこの山中に伸びていたのである。
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第14回 第三章 九度山から大坂城へその4
昌幸と幸村を幽閉してもなお、家康は彼らを恐れていた。いや、正確には、この時点では、家康は幸村をそれほど恐れてはいなかった。まだまだ取るに足らないものと考えていたようであるが、昌幸はそうではなかった。 二度の上田の戦いでは、真田にいいように翻弄された。それは全て昌幸の智略と度胸によるものだ。そう考えた家康は殊の外彼を恐れたのである。
それ故に、関ヶ原の戦いのあと二人に死罪を申しつけたのであるが、信之らの助命嘆願を聞き入れ、結局は幽閉という形でしか彼らを処罰できなかった。
「いつまた奴らはこのわしの首を狙ってくることか」
本来であれば一度幽閉された者はまず二度と戦場に立つことなどできないのであるが、あの家康をしてそう思わしめるほど二人の存在は脅威であったということだろう。
それでも将軍ともあろう者が、一度助命嘆願を聞き入れた以上、自ら表立ってその約束を反故にし、二人の命を狙うことは、流石の家康にも出来なかった。
表だっては出来ないが、闇なら可能である。さし当たって家康は九度山にかまりを送り込み、昌幸と幸村の監視に当たらせた。山中には、先に挙げた和歌山城主浅野の命に従う正規の監視役に加え、闇の監視役もいたのである。
また、かまりや浪人の中には、家康の命令に関係なく、昌幸と幸村の首を取り、それを手柄に重用して貰おう考える者もいた。一見穏やかに見えた紀伊の山中には既に導火線に火がつけられていたのである。
ただ、徳川方のこういった動きは、昌幸と幸村には想定内のことであり、平穏な毎日においても己のたがを緩めることは決してなかった。
九度山における真田父子の護衛には、当然の如く真田忍軍すなわち十勇士があたった。猿飛佐助、霧隠才蔵らを中心とする十人の真田精鋭部隊である。いや、実際はもっと沢山いたし、猿飛佐助自体が二人いたのである。二人の猿飛佐助とはいかなることか。
映画などでよく知られている猿飛佐助は、大猿と呼ばれ、頭抜けた体術と幻惑の業に長けた男であった。この男なしには戦国時代おける真田の活躍はなかったと言ってもよいほどの活躍をした。関ヶ原の戦いで島津義弘を薩摩へ逃がしたのも、この男の働きによるところ大であった。
もう一人の方は小猿と呼ばれ、その名の通り小兵ではあったが、その分、フットワークの軽さは真田忍軍の中でも一番であった。この男は情報収集に奔走した。真田父子の捲土重来を期す大猿の命令下、徳川方の動きを探ったり、大坂城の豊臣方の様子を伺ったりして、それを逐一大猿に報告するのが主な任務であった。こうして、紀伊の九度山は、真田父子にとっては幽閉の地でありながら、さながら戦場そのものの様相を呈していたのである。
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第15回 第三章 九度山から大坂城へその5
徳川方の刺客やかまりと十勇士との間でつばぜり合いが続き、双方に死傷者も出た。しかしながら、ここでの戦いにおいても真田の方が一枚上手であった。昌幸、幸村同様、十勇士も戦い方の極意を心得ていたからである。徳川方が表だっての攻撃ではないゆえに大軍を差し向けることができなかったことも真田には有利にはたらいた。
九度山での膠着状態に業を煮やした家康は天海を呼びつけた。天海は、正式名を南光坊天海といい、天台宗の大僧正であった。僧侶ではあったが、かなりのくせ者で、家康の側近として暗殺部隊を配下に抱えていた。
この天海には、一つ面白い説がある。実は、この男、あの本能寺の変で主君織田信長を謀殺した明智光秀であるという説なのだ。
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、逃走中、土民の竹槍で突かれて死んだとされているが、そうではなく、死なずに落ちのび、生き残こったという話である。
彼は半死半生の体で比叡山にたどり着き、そこでしばらく過ごした後、南光坊天海として歴史の表舞台に舞い戻ったというのだ。真偽は定かではないが、裏付けるような資料もいくつかのこっており、実に興味深い説と言ってよいであろう。
家康は、この天海に真田父子を暗殺する全権を委ねたのである。無論、表向きは己は一切関知せぬこととしてであったが。
家康から天海への命令は完全なる闇から闇への連絡であったが、蛇の道は蛇のたとえ通り、知りうる者にはどうしてもわかってしまう。小猿がいち早くその情報を掴んできた。 「なに、あの天海が動き出したか」
小猿から報告を受けた大猿、猿飛佐助はそう呟いて、
「皆の者、天海の抱えている暗殺部隊はこれまでのような刺客やかまりとは訳が違う。心して戦うように」
猿飛は、そう言って、十勇士にたちにたがを緩めることのないように促した。
事実、天海が送り込んできた殺しの使者たちは強力であった。流石の真田忍軍も苦戦を強いられ、十勇士の中でもリーダー格であった穴山小助が殺られてしまった。
小助が殺られたことを猿飛は昌幸と幸村に報告に行ったが、昌幸の方は内職に関する所用で留守にしていた。
「な、なにい、こ、小助が・・・」
幸村はそう言った後、暫し絶句した。
「はっ、惜しい男を亡くしました」
猿飛が神妙な面持ちでそう答えると、
「佐助よ、それで戦局はこれからいかに」 「はい、確かに今は苦戦を強いられておりますが、心配ござりませぬ。敵のやり口は、この佐助、あらかた把握致しました。これから必ずや盛り返してご覧に入れます」
「そうか、だが用心しろよ。お主たちにこれ以上死なれては父上もわしも耐えがたきことじゃからのう」
「有り難きお言葉、恐れ入ります。昌幸さまも幸村さまも呉々もご用心下さりますよう、切に願います。刺客やかまりは他にもおりますゆえ」
「うむ、わかった」
「それでは失礼仕ります」
そう言って猿飛は闇に消えていった。
真田忍軍と天海たちとの死闘は続いた。当初はやや劣勢であった真田軍が猿飛の予言通り、形勢を盛り返し、ほとんど五分と五分の戦いになった。これに業を煮やしたのは天海よりも家康であった。密かに天海を呼びつけ、 「何をぐずぐず致しておる。真田の首を取らねばお主の首がないものと心得よ」
「は、ははあ、承知致しまして候。必ずや二人の首を御前に」
叱咤激励というよりほとんど脅しに近い家康の言葉に余計に天海は焦った。そして彼のその焦りこそが猿飛の望むところであったのだ。
「ふふ、天海よ、焦れ、焦るがよい。ギリギリの鬩ぎ合いでは焦った方が墓穴を掘るもの。闇の戦いでは我ら真田忍軍誰にも退けはとらぬは」
まるで天海の心の内を見透かすかのように猿飛は仲間の十勇士を前に独りごちた。
しかしながら、真田軍の思うようにもことは運ばなかった。一気呵成に攻めてくるであろうと思われた天海の刺客たちが暫くは何も仕掛けてこなかったのだ。これには流石の猿飛も少し戸惑った。
「おかしい・・・なにゆえに、天海は攻めてこぬ」
そう言って怪訝な表情を見せた猿飛であるが、だからといって、こちらから攻めていく訳にもいかなかった。昌幸と幸村は幽閉されている身であるから、そんなことをすれば家康の思うつぼなのである。天海の攻撃も表向きには家康の与り知らないことであった。真田軍の方から攻めていけば、謀反ということになる。そうなれば、今度こそ死罪は免れないからだ。
哀しいかな真田軍にとっては守勢あるのみの戦なのだ。その一点にのみ大義名分がたつのである。
それでは、真田軍は、守勢ばかりの戦を永遠に強いられるのかというと、必ずしもそうではない。豊臣家の出方次第で大きく変わるのである。大坂城にいる秀頼公が再度家康と戦うことを決断し、その兵力として真田父子を必要としてくれれば、幽閉そのものが意味を持たなくなるからだ。
ただ、その際には昌幸と幸村は自力で九度山を脱出し、大坂城に赴かねばならないが。
いま一つ考えられるのは、二人が赦免されることであるが、これは昌幸に対する家康の感情を考えればほとんどあり得ないことと言ってよい。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第16回 第三章 九度山から大坂城へその6
小助が殺られたことを猿飛は昌幸と幸村に報告に行ったが、昌幸の方は内職に関する所用で留守にしていた。
「な、なにい、こ、小助が・・・」
幸村はそう言った後、暫し絶句した。
「はっ、惜しい男を亡くしました」
猿飛が神妙な面持ちでそう答えると、
「佐助よ、それで戦局はこれからいかに」 「はい、確かに今は苦戦を強いられておりますが、心配ござりませぬ。敵のやり口は、この佐助、あらかた把握致しました。これから必ずや盛り返してご覧に入れます」
「そうか、だが用心しろよ。お主たちにこれ以上死なれては父上もわしも耐えがたきことじゃからのう」
「有り難きお言葉、恐れ入ります。昌幸さまも幸村さまも呉々もご用心下さりますよう、切に願います。刺客やかまりは他にもおりますゆえ」
「うむ、わかった」
「それでは失礼仕ります」
そう言って猿飛は闇に消えていった。
真田忍軍と天海たちとの死闘は続いた。当初はやや劣勢であった真田軍が猿飛の予言通り、形勢を盛り返し、ほとんど五分と五分の戦いになった。これに業を煮やしたのは天海よりも家康であった。密かに天海を呼びつけ、
「何をぐずぐず致しておる。真田の首を取らねばお主の首がないものと心得よ」
「は、ははあ、承知致しまして候。必ずや二人の首を御前に」
叱咤激励というよりほとんど脅しに近い家康の言葉に余計に天海は焦った。そして彼のその焦りこそが猿飛の望むところであったのだ。
「ふふ、天海よ、焦れ、焦るがよい。ギリギリの鬩ぎ合いでは焦った方が墓穴を掘るもの。闇の戦いでは我ら真田忍軍誰にも退けはとらぬは」
まるで天海の心の内を見透かすかのように猿飛は仲間の十勇士を前に独りごちた。
しかしながら、真田軍の思うようにもことは運ばなかった。一気呵成に攻めてくるであろうと思われた天海の刺客たちが暫くは何も仕掛けてこなかったのだ。これには流石の猿飛も少し戸惑った。
「おかしい・・・なにゆえに、天海は攻めてこぬ」
そう言って怪訝な表情を見せた猿飛であるが、だからといって、こちらから攻めていく訳にもいかなかった。昌幸と幸村は幽閉されている身であるから、そんなことをすれば家康の思うつぼなのである。天海の攻撃も表向きには家康の与り知らないことであった。真田軍の方から攻めていけば、謀反ということになる。そうなれば、今度こそ死罪は免れないからだ。
哀しいかな真田軍にとっては守勢あるのみの戦なのだ。その一点にのみ大義名分がたつのである。
それでは、真田軍は、守勢ばかりの戦を永遠に強いられるのかというと、必ずしもそうではない。豊臣家の出方次第で大きく変わるのである。大坂城にいる秀頼公が再度家康と戦うことを決断し、その兵力として真田父子を必要としてくれれば、幽閉そのものが意味を持たなくなるからだ。
ただ、その際には昌幸と幸村は自力で九度山を脱出し、大坂城に赴かねばならないが。
いま一つ考えられるのは、二人が赦免されることであるが、これは昌幸に対する家康の感情を考えればほとんどあり得ないことと言ってよい。
天海側の変貌を猿飛から聞いた昌幸は即座にこう言った。
「佐助よ、それは天海の算段ではない。たぬきじゃよ、たぬき」
「と申しますと?」
「うむ、流石は家康じゃ。お主の推察通り奴は天海に注文を出したであろうが、あとでこう付け加えたであろう」
「昌幸様、如何様に」
「勝負ごとというものは何も攻めるばかりが脳ではなかろう。兵法に、押さば退け、退かば押せのたとえがある。カッとなった家康ではあるが平常心を取り戻したのち、必ずや天海にそう諭したはずじゃよ」
「なるほど・・・ 拙者まだまだ未熟者でござりました」
「はっは、お主が未熟者であらば世の中みな未熟者じゃて、のう、幸村よ」
昌幸の側にいた幸村も目で笑いながら尤もだという顔をした。
「なあに、こういうことは戦の最前線を少し離れて戦局を見るからわかることじゃよ。わしらもしかり、家康もしかりじゃ。お主のように戦の真っ只中で命を賭けて戦っている場合はなかなかそうはいかぬものじゃて」
昌幸は旨そうに焼酎を一杯あおった。
「じゃがな、そういう時の家康は手強い。息子の秀忠なんぞとはものが違うは。この戦も長く続くかもしれぬのう。お主らにも負担をかけるが、頼んだぞ佐助」
「勿体ないお言葉、我ら真田忍軍、昌幸様、幸村様とともにあります」
猿飛は力強く言い切った。
昌幸のこの推察は正しかった。一度はカッとなって天海を叱りつけた家康であったが、明くる日使者を通してほぼ昌幸が言ったような内容の文を天海に届けていたのだ。
07/05/2015
『その男、真田幸村』総集篇その1(1話~8話)
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる眞田幸村の真実-
『その男、眞田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第1回 序章 輪廻転生
人は生まれ変わる。そのサイクルは概ね四〇〇年に一度であると霊視の研究家は書いている。無論、こういったことが科学的根拠に乏しいことであるのは言うまでもない。しかしながらこの世の出来事が全て科学的に解明されるわけでは決してない。もし、解明されるという学者がいるとしたらそれは思い上がりというものであろう。
また、この世が全て科学に支配されているとしたら全く以て、味も素っ気もない。一部のオカルト的信仰は別としても人が純粋な気持ちで宗教にすがる姿などは科学の世界とは一線を画したものであることは言うまでもない。
今から四〇〇年前、慶長十九年( 一六一四年) の戦乱期、智略と矜恃で名を馳せた一人の戦国武将が居た。あの江戸幕府初代将軍徳川家康が最も恐れた武将であった。
この男、長野上田の合戦では二度にわたって家康を窮地に追い込み、切腹まで覚悟させた強者である。男の名前は、真田信繁、いや一般には真田幸村と言った方がわかりがよいであろう。
一六一五年の大阪夏の陣で幸村ら豊臣方は敗れ、幸村死亡、太閤秀吉の子秀頼は自害、そして二人に殉じるように幸村の子大助も十六歳で自害、と歴史上の史実は伝えている。
しかしながら、ここが大きく事実とは異なっている。秀頼と幸村・大助父娘は、真田忍軍すなわち十勇士らの護衛により、豊臣方の武将であった島津氏を頼って薩摩( 鹿児島)に赴き、難を逃れたのである。事実、鹿児島には秀頼の墓も真田家の墓も実在する
歴史家や作家の書くことが必ずしも事実とは言えないのである。直系親族でしか知り得ない内容が時として一般に流布している歴史的事実を凌駕することがあってもなんら不思議なことではない。そして、真田幸村に関する事実が正にそれに当てはまるのである。詳しい確証と考察は追々述べる。
この大助の直系に当たる男が今実在する。四〇〇年前に壮年であった幸村の生まれ変わりとして現在壮年を迎えている一人の男が実在するのだ。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる眞田幸村の真実-
『その男、眞田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第2回 第一章 夢の誘い(いざない) その1
平成一四年八月、うだるような暑い日が何日も続いた。福岡で歌手をしていた眞田洋至は、その頃毎日のように同じ夢を見た。先祖の夢である。何を隠そう、実はこの男、あの戦国時代の智将、真田幸村の子孫なのである。いや、詳細は追々述べるとして、子孫どころか洋至は幸村の生まれ変わりであった。ここにかって誰も書き得なかった驚愕の真実が存在する。直系の子孫でしか知り得ない事実は、日本の歴史教育、いや、歴史そのものを根底から覆す内容と言えるであろう。
自分が真田家に所縁のあることは彼にも分かっていた。小さい頃から父や祖父に話は聞いていたし、自ら求めて関連書籍を調べたりもした。しかしながら、まさか自分が幸村の生まれ変わりであろうとは、それこそ夢にも思っていなかった、
連日見る夢には、いつも二人の人物が現れた。話の内容や暗闇にうっすらと浮かぶ戦装束などから考えて、その二人は、幸村の父昌幸と兄信之に相違なかった。無論、彼に最初からそう認識できた訳ではない。夢とはそういうものであろう。おぼろげであるからだ。それでも流石に毎日のように見れば、次第にはっきりとしてくるものである。
夢の中で二人は彼のことを「幸村」と呼んだ。そして、毎回必ず、「信州上田に行け」と告げるのである。上田は真田家にとっては実質的な故郷であり、原点とも言うべき所である。勿論、彼もそのことは心得ていたが、これまで一度も訪れたことはなかった。
九月になって遂に上田を訪れる決心がついた。それは単に、取りあえず上田に行ってみようか、というような漠然とした気持ちではなかった。行かなければならない、そこにたとえ何が待ち受けていようとも、これは自分に課せられた宿命であるに違いない、避けて通ることは出来ないのだ、連日見る夢で、彼はそう確信した。
この頃、洋至は公演中に、舞台で大怪我をして、脚にボルトを入れる、大がかりな手術をしていた。術後まだそれほど日にちは経っておらず、日常生活にはあまり不自由はないにしても、福岡から遠路長野の上田まで行くのは、やはり無謀といえた。案の定、周りの者も反対した。
だが、彼の決心は変わらなかった。幸か不幸か、手術をしたことで仕事は空きになっていたし、何より「今行かなければ」という思いが強かった。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる眞田幸村の真実-
『その男、眞田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第3回 第一章 夢の誘い(いざない) その2
九月の初旬、愛車ハーレーを駆って、高速道路を東へ飛ばし、一路信州へと向かった。一見、怪我をしていてバイクで遠出するなどもってのほかと思われるかもしれないが、よく考えれば電車などで行くより脚にかかる負担は軽いはずであった。それが正しい、正しくないかは問題ではなかった。彼の魂が彼にそう説得したのだ。
信州上田の真田町 (さなだまち) は、 長野県東部に位置する町である。
歴史的には、戦国期に甲斐国武田氏の家臣となり、豊臣政権時代に大名化し、近世大名として存続した真田氏発祥の地として普く有名である。
地理的には、北部の菅平高原は標高約一三〇〇メートルで、夏はラグビー、冬はスキーとスポーツが盛んな地である。
また、夏の冷涼な気候を利用した高原野菜の栽培が盛んに行われていて、長野県内のみならず他府県への出荷量も多い。
福岡から長野まで、車で行くと十三時間はかかる。勿論、渋滞がないものとしての計算である。幸い、バイクで行くので、道路の混雑はあまり懸念する必要はなかった。それでも遠距離には違いないし、車で行くよりも肉体的な疲労は大きいはずであるが、彼は強行した。
福岡を朝六時に出て、途中、昼飯とトイレ、そして給油に三度ほどドライブインに寄った以外は、高速道路を走り続けたこともあり、かろうじて日の明るいうちに上田市に着いた。
半日かかっていなかった。
実際着いてみると、真田町は、上田市の中心部からほど近いところにあった。彼は、国道一四四号線から分岐して細い道に入り、標高二千メートル級の角間山と烏帽子山に挟まれた角間渓谷に向かった。ここは真田十勇士の猿飛佐助らが修行をしたと言い伝えられる所である。 その日は、そこに宿をとり、十勇士が鍛錬したと言われる岩場を見渡せる温泉につかった。夕餉には、有名な胡桃蕎麦を食べ、遠路の旅の疲れを癒やした。
それでも流石に長旅で疲れすぎていたせいか、温泉に入り、晩飯を食べると、そのまま深い眠りに落ちてしまった。夢は見なかった。明くる朝、彼は、やや遅い朝食を済ませた後、バイクで真田町を見て回った。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる眞田幸村の真実-
『その男、眞田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第4回 第一章 夢の誘い(いざない) その3
バイクをゆっくり走らせながら、町を散策している彼に、いきなり強烈なインパクトが襲いかかってきた。真田家の象徴である六文銭が視界に飛び込んできたのである。吃驚した彼がバイクを留めたところは小学校の校門の前であった。なんと校門の石に六文銭が刻まれていたのだ。
この石門を含め、町全体が真田家一色と言っても過言ではなかった。路傍に立てられている案内板や標識など、そこが真田家発祥の地であることを如実に物語っていた。
彼は、市役所や郷土資料館なども訪れて、係の人から話を聞いた。話の内容は、彼の期待を裏切るものではなかったが、もう一つ物足りなくもあった。なぜなら、彼がこれまでに父や祖父から聞いたり、書物などで知ったことと大差がなかったからだ。
「それならあれほど執拗に昌幸と信之が俺をここに招くはずがない」
洋至は、そう考えた。
「たとえ、夢とは言え、毎日のように俺に上田へ行けと彼らは言った。しかも俺を幸村と呼んだのだ。もっと何かあるはずだ。俺の知らない、いや、世間の誰もが知らない何かが・・・」
そう思いながらもその日は取りあえずそのまま宿に戻った。
「このままでは福岡に帰れない」
彼は、何かを掴むまでここに滞在することにした。
しかしながら、彼の思いに反して、昌幸と信之は夢に現れなかった。福岡ではあれほど毎日見た夢を上田では全く見ないのである。
「俺は何をしにここに来たのだ」
気ばかり焦るのであったが、どうしようもなかった。ただ、滞在中に不思議な出来事がが起こった。
真田町へやって来てからこれといった大きな収穫を得られない鬱蒼とした気持ちを紛らしたくて、ある晩、彼は少々酒を飲み過ぎた。そのまま寝入ってしまい、朝ふと目が覚めると、なんと部屋の金庫が開けられていたのである。勿論、彼はちゃんと鍵を閉めていたし、部屋の鍵も閉めていたはずである。
吃驚した彼は、思わず、「泥棒」と大声を上げたので、旅館中が大騒ぎになってしまった。ただ、盗られた物は何もなく、誰が金庫を開けたのかも分からずじまいであった。
全くもって合点のいかぬ出来事であったが、それ故に奇妙というか不気味でもあった。そして、この時の彼には、後に予知夢とでも言うべき不思議な夢を見たり、己の身に起こる、一見奇妙でありながら、実はどう考えても必然としか思えない出来事が起こることなど知る由もなかった。
いくら術後の療養中であるとはいえ、そうそう何日も仕事をほったらかす訳にも行かず、結局彼は何も得ることが出来ぬまま、十日ばかりの滞在で上田をあとにし、福岡に帰らなければならなかった。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第5回 第二章 島津義弘を救出その1
福岡に戻った洋至は、上田での不完全燃焼が尾を引き、暫くは生活のリズムが戻らなかったが、時の流れがなんとかそんな彼を救ってくれた。ただ、それでも先祖が夢で語りかけた話は忘れることが出来ず、間を見ては家に代々伝わる古文書などにも目を通した。
また、上田では全く夢の枕元に現れなかった昌幸と信之も以前のように連日とはいかぬまでも再び彼の枕元に立つようになった。そして、それは測ったかのように、洋至が何らかの疑問にぶち当たったときにであり、彼にはその疑問を解決する大きな手助けになった。
そうこうしながら洋至は徐々に真田家の真実を知るようになっていくのであるが、ここから先は、歴史上の出来事の中にそれを織り込んで話を進めていくことにする。
慶長五年( 一六〇〇年)に起こった、石田三成を大将とする豊臣方西軍と家康の徳川方東軍との、いわゆる天下分け目の「関ヶ原の戦い」では、昌幸と幸村は豊臣方につき、幸村の兄、信幸は徳川方についた。これは何も親兄弟が仲違いをしたとか、そんな理由からではない。全ては真田家を絶やさないがための昌幸の深謀であり、三者協議を重ねた上での決断であった。
この三人は、血の団結、固い絆で結ばれていたがゆえに、「われら真田一族、何としても生きのこらねば」という思いを一点に凝集させた決断であったのだ。
言うまでもなく、三人のこの決断は、勝利の女神が豊臣方、徳川方のどちらに微笑んでもよいようにとの思慮に相違ないが、真田のこういう考え方は関ヶ原の戦いの直前に芽生えたわけでは決してない。
これより先に、信幸は、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘、小松姫を妻にし、一方の幸村が、秀吉の側近中の側近、大谷吉継の娘を妻にした事実も同じ趣旨に基づいていると考えてよい。
この三者の決断は、俗に言う「犬伏の別れ」であるが、このあと暫くして、信幸は、それまでの「信幸」の名を「信之」に改め、二人との決別の証しを立てたのである。
-戦乱を生きた男の矜恃!! いま明かされる真田幸村の真実-
『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第6回 第二章 島津義弘を救出その2
関ヶ原の戦い自体は、あっけなく一日で終わってしまった。東軍の勝利である。ただ、東軍にとっては一見完勝ともいうべきこの戦いにおいても徳川側は昌幸と幸村に一矢報いられたのである。
昌幸は若い頃から戦における戦術と智略に長けていた。武田や上杉、織田、徳川といった巨大勢力を目の当たりにし、弱小とも言うべき真田勢が戦乱の世を生きのこるにはどうしたらよいかを常に考え、実践してきた賜であった。
無論、その精神は息子幸村にも受け継がれた。この合戦においても彼らのそういった智略は遺憾なく発揮されたのである。
二人は直接関ヶ原には赴かなかったが、戦地に向かおうとする家康の子、秀忠の軍勢をものの見事に上田で足止めしたのである。あの手この手で秀忠軍を翻弄した結果、秀忠はとうとう合戦には間に合わず、父家康の逆鱗に触れ、危うく勘当されそうになったのだ。 このとき、家康の怒りの矛先は昌幸・幸村親子にも向けられた。烈火の如く怒った家康は戦後処罰の一環として、昌幸と幸村に切腹を申しつけたのである。
二人のこの窮地を救ったのが幸村の兄、信幸であった。彼が徳川に対して命がけの助命嘆願を行った結果、二人は死罪を免れ、紀伊の高野山に配流という形で収まったのである。
そしてこの減刑処置には、信幸のみならず、妻の小松や、その父本多忠勝の助力も大きかった。
また、この時に先に述べた信幸の改名が行われたのである。父の名を一字頂戴した「信幸」の「幸」を「之」に替え、父との決別の証しを立てたのであった。
ただ、この章で私が言いたいのはこういったことではない。この程度のことであれば多くの人が書いている。実は、この関ヶ原の戦いには真田家の真実と大きくかかわってくる隠された真相が存在するのだ。
その真相の主役は薩摩・島津家の第十七代当主島津義弘である。ここで、まず島津氏について少し触れてみたい。
島津義弘は、戦国時代の武将で、島津家第十五代当主島津貴久の次男である。兄に義久、弟に歳久、家久がいる、いわゆる島津四兄弟の一人である。
父貴久の後を兄の義久が継ぐと義弘は兄を補佐し、幾多の戦いにおいてその勇猛ぶりを発揮して九州全土に勢力を拡大していった。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第7回 第二章 島津義弘を救出その3
島津兄弟は、天正十五年 (一五八七年) に
豊臣秀吉の九州征伐軍とも戦い( 根白板の戦い) 、奮戦するも、流石に兵力で豊臣軍には
及ばず、敗北する。
この敗北により義久は家督を義弘に譲り、義弘は第十七代当主となるが、これはあくまでも形式的なものであり、実質的な島津家のリーダーは依然として義久であった。
多少の紆余曲折と葛藤はあったが、この敗北以後、島津一族は豊臣政権に対して協力的で、秀吉の朝鮮出兵の際にも参戦した。
元来力のある島津一族は豊臣政権下においてもその力を遺憾なく発揮していったが、これを秀吉やその側近が警戒した。
あるとき秀吉は、誹謗中傷を以て兄弟の仲を裂き、島津の勢力を分断させようとしたが、島津兄弟の結束と絆は微塵も揺るがず、秀吉もその絆の強さに舌を巻いたことがあった。 このことからも推察できるが島津兄弟は武力に長けていただけでなく、義と情を重んじる一族であった。その点で同じく義を大切にする幸村と通じるところがあったようである。 幸村が義をと書くと奇妙に思う人がいるかもしれないので少し補足する。
幸村の父昌幸は「義」よりは明らかに「智略」を重んじるところがあった。「人は義よりも己の利欲のために動く」というのが彼の信念であり、これは無理からぬ考え方であった。武田や上杉といった巨大勢力にはほど遠い弱小勢力の真田一族がそういった巨大勢力と渡り合って生きていく上には仕方のないことだからである。
「人は利欲のために動く」ということは裏を返せば、「人は利欲に弱い」ということである。昌幸はそういう人間の弱さを巧みについて戦乱の世を生きてきたのだ。そして、その手段において一点の曇りもないと彼は自負していた。子の幸村も父のそういう考え方を尊敬していたし、誇らしくもあった。
しかしながら、この父親に対する気持ちを大きく揺さぶられ、人間の生き方に対する価値観さえも問われる事態に直面したのである。
それは彼がまだ二十歳前の時であった。
父の昌幸は最初武田についていたが、武田が滅ぶと織田に、織田のあとは徳川に、上杉に、そして最後は豊臣にと、仕える主をころころとかえていった。これは先に述べた、昌幸一流の生きのこるための術に従った対応であり、機を見て敏に行動しただけであったが、上杉に仕えた時に幸村の気持ちが大きく揺らいだのである。
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『その男、真田幸村』 監修・眞田洋至 製作・桒原 聡
第8回 第二章 島津義弘を救出その4
上杉の配下に入った昌幸は、子の幸村を人質として上杉に差し出した。これはまあこの時代ではよくあることで、子は担保のようなものであった。
ところが、上杉の方は、形式的にも、実質的にも幸村を人質には扱わなかったのである。上杉景勝、直江兼続の二人は彼を客将として厚遇したのだである。
「人と人の付き合いに質(しち)はない。すべては義より生じ、義を以て付き合っていく」
彼らは幸村をそう諭した。直江兼続の師匠は、武田と死闘を演じた、あの大武将上杉謙信である。
謙信はことのほか信義を大切にした武将であった。戦においてはほとんど無敗という圧倒的な強さを誇りながらも、「義」に反した戦はただの一度も行わなかった男なのだ。
ライバルの武田信玄がいまわの際に、息子の勝頼に次のように言った。
「何かあったら謙信に相談するがよい。こんな戦乱の世でもあの男だけは信頼できる。決してお前らを悪いようにはしないはずだ」 死闘を演じたライバルにこれだけのことを言わせた男である。その謙信の信念は弟子たちにも脈々と受け継がれていたのだ。
若い幸村の気持ちは大きく揺らいだ。
「我々真田一族は、群雄割拠の世の中を己の力のみで巨大勢力と渡り合わなければならなかった。その一族の長が持ちうる考え方として父上の言っておられることは、全くもってその通りだ。だが・・・」
二十歳前という、言わば青春時代真っ盛りの幸村には、上杉の信念は、あまりにも強烈な刺激となった。
「人は己の利欲だけで動くのでは決してない。義によって動くことを旨とすべし」
幸村は上杉のこの言葉を頭の中で何度も反芻してみた。反芻する度に自分のこれまでの信念が大きく揺さぶられるのを禁じ得なかった。
悩みに悩んだ幸村であったが、納得できる結論には到達できなかった。それでも流石は幸村である。弱冠前の身でありながら一応次のように考えて己の葛藤を鎮めた。
「父上の言われることは至極尤もである。上杉氏の言われることは、今の己にはまだ完全には理解できぬ。しかしながら、これから生きていく上で身につけて然るべきものという気がする。己の魂がそう答えるのだ」
幸村のこの考えは、それ以後の上杉氏の生き様を見てゆくに及んでますます確信的なものになっていったのである。